1/7 ナラ〜タンバクンダ  リタイヤ!

 キャンプ地ではとりあえず給油し、次に水をもらおうとしたがすでに終了していてもらう水はない。何とか探すと一人500mlを1本ずつ分けてもらえた。今日の水はこれだけ。

 スタート地点に行くとあと残り10台ほど。ぎりぎりセーフ。チームの岡田・土方組がいて僕らは無事なことと、マシンの現状を今日のキャンプ地についたらメカニックに伝えてほしいと伝言。

息をつくまもなくスタート。2日寝てないため疲労がたまり、交代で運転する。

CP1手前、運転を寺田選手に交代すると、寝起きのためかいきなり木に正面衝突。木を折って、エンジンも止めてしまった。この車のエンジンをかけるには24Vが必要で、最近の四駆は12Vで、カミオンはまた違うらしい。稲垣号は気づかずにCP1を越してしまい戻ってこれない。運良くしばらくして同じ70が来たためバッテリーをつなげてもらってエンジンスタート!

 急いでCP1に向かうとそこにはチームのプレスが待っていた。みんなとても心配してくれていたが、次のCPへ急いでいるので、交わす言葉も一瞬で次へ向かった。

 CP2を通過し、しばらく行くともう夕方で暗くなってきた。そこで運転していた寺田選手からの一言「ライトがつかない」 木にぶつけたときに故障したようで、日はどんどん暮れていく。
 はじめは懐中電灯で走ったがもう暗くて見えない。
 次はカミオンの後ろを走ったが、埃で何も見えないために車間距離を2m以内にして走ったがとても危険で断念。
 次はカミオンに後ろからライトを照らしてもらって前を走るが今度は自分の陰で正面が見えない。そうしているとまたクラッチオイルが漏れだし動かなくなる。
 このころにのどの渇きは限界になり、後ろから来たカミオンを止めて、とにかく水を頼んだ。何台か断られたが、ある車は飲料水ではないが防腐剤などの入ったラジエター用の水を分けてくれて、まずそれでのどの渇きを潤した。次は泥臭い現地の水をくれたがこれも飲んだ。

 ラリーの最後にはケガをした人やバイクを運んでくれるカミオンバレーというトラックが走ってくるが、あいにく車は運んでくれない。このトラックにはちゃんと飲料水が積んであり、一人1リッターづつもらうことができ、生き返った気分だった。

 この時点でこの後もうだれもここを通ることはなくなった。エンジンは絶対切れない、漏れ続けるクラッチオイルは後わずか、ライトもつかない。この状態で後250km走りきるのは危険だと判断し、ここで夜を明かし、残りのクラッチオイルで町まで出ようと決心した。

 ここで、僕らのパリダカは終わった。

1/8 生きて帰るぞ!  バマコ着

 朝までエンジンをかけてビバークし、明るくなってからクラッチの修理。
 夜は周りが全く見えず、森の中にでもいると思っていたら実は360度見渡せる草原だった。
 昨日よりも漏れがひどくなり二人は真っ青。しかも後ろのドアはぶつけて開かず工具もない。唯一あったのは針金とペンチだけ。
「絶対生きて帰るぞ」と悪戦苦闘。数時間後、得意な針金細工で何とか漏れをストップ!

 大きな町マリの首都バマコへはここから500km。日が落ちる前に着かなくてはと出発。しかし途中、自分がどこにいるかわからなくなり、生きているバッテリーを助手席足下において、GPSの電源を直結。自分の位置を確認できた。

 途中、ある村で寺田選手が、突然車を降りて「ちょっと待ってて」と走り出した。
数分後、その手に持っていたのは冷えたコカコーラと、マルボロだった。
SAVE THE AFRICAのボランティアで、アフリカを訪れたことのある寺田は、この村には電線があるのを見て、電線イコール、冷蔵庫、冷えたコカコーラと言う方程式を知っていたのだ。人生で一番おいしかったコカコーラだ。
 しばらく行くとミネラルウォーターも手に入りのどの渇きは潤った。

 日暮れ前、何とかバマコに到着。そのとき[バマコからダカールに車を列車に乗せて運べる」と隊長がパリで言っていたことを思い出した。町中走り回って駅を探していると、ある黒人男性がどこへ行きたいんだと聞いてきた。駅で電車に車を乗せたいというと、その男は駅まで案内してくれて、運送業者の所までつれていってくれた。

 運送業者に話すと、明日書類を作って、2日後に運べるとのこと。何とかなりそうだ。ただし、現地の人は話せてもフランス語で、英語はほとんど話せない。一人だけ英語の通じる人がいて助かった。

 この日はその運送会社のボス「ピコス」が家に泊めてくれることになった。家に行くとそこは土壁の平屋で白黒テレビやベッドもある。この辺では中級以上のようだ。
 体を洗ってこいと、現地の人より汚い僕らをシャワールームに連れていってくれた。とは言っても土壁で囲ってあるだけでライトもなく、懐中電灯で照らしながら井戸の水を浴びた。しかし、タオルがまっ茶色になるほど体は汚れていた。

 食事も用意してくれ、4日ぶりのちゃんとした食事だ。チャブ・ジェンといって日本米に近い米に魚(ナマズ)の煮物をかけたものだった。米に感動して思いっきり食べたかったが、胃が受け付けなくなっていて、あまり食べられない。
 また、「ピーマンいるか」と言われて出された小さなピーマンを食べたところ、実はピーマンとはアフリカでは唐辛子のことで、巨大な唐辛子を食べてしまい、辛くて井戸の水をがぶ飲みした。
 食事後、ピコスはいろいろ親戚じゅうを案内してくれ、今いたところは一人目のワイフで、次に二人目のワイフの家など紹介してくれた。
ピコスを始めほとんど英語も話せないが、なぜか会話は楽しかった。

これで帰れるという安心感と、何か楽しい旅が始まりそうな予感がした。